このインド旅行記は受講生YMさんが9月にインドを旅された時の体験を、旅行記としてフォスターのHP用に特別に書いていただきました。

これとは別にYMさんご自身のHPには更に詳しい内容が掲載されています。この旅行記の最後にURLがありますので、興味のある方はお読みください。

インドに興味のある方には有益な情報となると思います。

YMさんのブログはこちら

筆 者
名前 Y.M.
生年月日・略歴 1982年1月18日

関西地方の某私立大卒業後、現在広島大学文学研究科M2。大学時代、交換留学で中国の広東省に1年間滞在。

本当は修士論文書かなきゃいけない時期に放浪旅行していたのが学校にバレるとまずいので、匿名といたします。

英語のレベル インド人とケンカするときと相手を騙す時だけやたら流暢。がんばらないと英字紙を読めないレベルなので、がんばりなさい・・・。
その他 こういう真面目なインド旅行記なんか読みたくないよ、という方は自己責任でこちらにどうぞ。


身毒中毒~The Sindhu Addict~

――身毒;中国側でのインドの古称。Sindhuの音写。

「天竺國一名身毒,在月氏之東南數千里。

俗與月氏同,而卑?暑熱。其國臨大水。乘象而戰…。」

『後漢書』卷八十八「西域傳」第七十八

一.停滞の都、進化の城(Hong Kong & Shen zhen外伝)
2005年8月30日、

風邪から病み上がりの身体を引きずり福岡空港へ向かい、キャセイパシフィック航空香港便に搭乗。

香港にて一日のトランジット(乗り換え)の後、翌日にあらためてインドのムンバイへ飛ぶ予定。

久しぶりに読む香港の新聞と、CAの広東語の響きにうきうきしながら、キャセイ航空の垢抜けた機内で非常に快適な空の旅を過ごす。

飛行機は台北を経由し、香港には午後3時に到着。

空港からの2階建てバスに乗り込み、懐かしい新界の山並みを楽しみつつ、九龍半島中心部へと向かう。
来るたびに北京語が通じやすくなり、「歡迎使用人民幣(人民元のご使用大歓迎)」の看板がどんどん増えてゆく香港の街にほのかな寂しさを感じながら、旺角(ウォンコック)の繁華街を散策。

九広鉄道の駅より、中国側の深せん市との境界・羅湖(ローウー)へ向けて電車に乗る。

今夜、もう現在は結婚してしまった留学時代の友人と一緒に食事し、あつかましくも彼女らの新婚家庭に割り込み、一晩泊めていただく約束をしてしまっているのだ。

数年前まではその混乱と混雑で独特の怪しさがあった羅湖の境界は、しばらく来ない間に驚くほど清潔に垢抜けていた。


香港の相変わらずの不振と、深せんの変化に驚きつつ、これまた新たに建設されたピカピカのメトロで、友人との待ち合わせ場所へ。

僕は元々、彼女の旦那さんとも顔見知りなので、おふたりと三年ぶりのうれしい再会。

風邪のガラガラ声で発音が不安定になっているのを自覚しながら、久しぶりにのんびりと中国語や広東語で話をする機会を得る。

翌朝、朝食に飲茶。

好きなものを頼んでいいとのことなので、風邪の養生に豚肝の粥と、僕の好物の鶏の脚と牛の胃の煮物を注文してくれるように頼む。

龍井茶をおかわりしながら、頬が落ちそうな広東料理をたらふく食べて一人300円ほど。

こういう点、やはり中国はいい。

その後、船で蛇口港から直接香港機場へ。再びキャセイ航空の機上の人となり、一路ムンバイに向かう。

現地時間午後8時過ぎ、暗闇のムンバイ・シヴァージー空港到着。

二.ムンバイ(ボンベイ)散歩

朝、インド門の近くに宿をとっていたので、そのままムンバイの市内を散策。

じっとり蒸し暑い空気の中で街を彷徨う。

このとき、やはりインドはずいぶん汚い場所なのだなあという印象を持ったのだが、後にムンバイはインドで一番清潔なレベルに属する街だったことを知る。

ムンバイはイギリス人が作った街なのでさして長い歴史を持たず、この国の古い街(まあ、ほとんどが古い街だが)に付きまとう、数え切れないほどのインド人のカルマが付着したような濃厚な雰囲気が比較的弱いのだ。

以下はそれぞれ、イギリス人が建設したチャトラパティ・シヴァージー駅(旧ビクトリア駅)と駅前ビル、プリンス・オブ・ウェールズ美術館、郵便局の写真。

ムンバイ(旧名ボンベイ)は植民地期初期にボンベイ管区の首都だっただけあって、英国コロニアル様式の壮観な建物が多い。

また、インド人の大金持ちが作った↓タージマハルホテルも有名らしい。

午後、船に乗ってムンバイ湾の沖合へ向かい、エレファンタ島の石窟寺院へ。世界文化遺産に登録されているだけあって、見た時は感動したのだが、その数日後にエローラ・アジャンターの遺跡を見たので、すこし印象があせてしまった。

ただ、それでも千数百年以上昔に、これだけ正確な直線や正円の入口や柱を彫り上げたテクノロジーや数学力には脱帽するよりほかない。

  

実のところ、ムンバイは経済都市の気配が強く、ざっと一日回れば後はさして見るべきものはない。

僕ははじめムンバイに3日間滞在する予定だったのを切り上げ、2日目の夕刻の夜行列車で、次の目的地のアウランガーバードに向かうことに決めた。

夜行に乗り込む日の夕刻、駅の近くのレストランにてエッグマサラを食べる。

店員の若い男は外国人の僕に興味津々らしく、なにかとサービスしてくれた。

「日本か…。おれ、日本はすごく好きだな…。」あまり上手くない英語でにこにこしている彼の顔を見ていると、ムンバイもそう悪い街じゃないな、と思える。

彼に礼を言ってから、バックパックを担いで中央駅へ。乗り込んだ2等寝台は想像していたよりは快適で、僕は出発から到着までぐっすりと眠った。

三.皇帝の足跡

9月3日早朝4時、

真っ暗な中をアウランガーバード駅に到着。

今から宿を探すにも、暗くてどこが宿かすらよくわからない。

見ると駅の構内から駅前の広場に至るまで、無数の人間が地べたにゴロゴロ寝ている。

人が多いのは、無人の暗闇よりは安全だろうと思い、僕も広場の段差に腰を下ろして、バックパックを抱え込むようにして寝ることにする。

なんだか深夜特急にも似たようなシーンがあったなあと思い、すこしおかしみを感じながらまどろんでいるうち、夜が明けた。

早速街に出ると、イギリス色が強いムンバイとは全く違ったインドの地方都市が目の前に開けていた。

  

かつて、日本で田沼意次がバブル政治を行なっていたころ、北インドではインド史上最強の帝国のひとつであるムガール帝国が、デカン高原のラージプート諸勢力を完全に自らの版図に加えるべく、日々外征に明け暮れていた。

その皇帝アウラングゼーブの名を冠したのがここアウランガーバードの地で、街のあちこちには当時の遺跡が多数埋もれている。

世界文化遺産のエローラ・アジャンターの石窟寺院への基地でもあるし、ここは歴史好きには外せない街なのだ。

そのアウラングゼーブゆかりのムガール庭園、パーン・チャッキーで、門でモギリをしていたムスリム兄弟にやたらに懐かれた。

下の写真は、アウラングゼーブが父帝の建設したタージマハルを模そうとして、大理石を使う金が無かったので漆喰で建設した結果、時がたって壁が黒ずんでしまった偽タージ、ビービー・カ・マクバラー。

  

その後、旧市街のバザールを散歩。イスラム系の街名である「バード(bad)」が冠されているように、この街はムスリムが多い。

ただ、ヒンドゥー教徒との先鋭的な関係は北インドほどは強くないらしく、実際に住民からも「ムスリムもヒンドゥーも共存すべき隣人」といった話を耳にした。

以下、両方の住民がウロウロしている、アウランガーバードのオールド・バザール。

インドは、街角の子どもがとにかくかわいい。

  

↑街角のヒンドゥー寺院と、パンジャービードレスの女の子。

路地裏では、リクシャーやバイクに邪魔されながら、街の兄貴たちがクリケットに興じていた。

クリケットは、インド・パキスタンやスリランカなどの南アジア諸国ではとてもメジャーなスポーツで、一昔前の日本での野球に相当する地位を占めているらしい。

これから先のあちこちでも、路地や広場で草野球もとい草クリケットに興じる男たちをしばしば目にすることがあり、一緒にやろうと誘われることも多かったのだけれど、ルールがよくわからないので断っていた。

これからインドに行く予定の人は、クリケットのルールを覚えてから行くと、旅が楽しくなるかもしれない。

四.デカンのカイラス

乗り合いバスでエローラ石窟寺院へ。バスの中で気のいいインド人の親父さんの集団と知り合い、色々と話す。

僕の語彙力が貧弱なのに加え、親父さんがたの英語もひどいインド弁で、ちょっと油断すると相手がヒンディー語を話しているのか英語を話しているのかすらわからなり、会話は楽しいながらも回答に苦心。

彼らは遠く離れた日本という異国からやって来た人間に興味津々らしく、日本で一番儲かる職業から政治や選挙のシステムまで尋ねられ、途中から何だか宇宙人の実験サンプルになっているような気分になってきた。

エローラの遺跡群は、日本で高校生の世界史の教科書にも載っており、前情報によれば、数多くある世界文化遺産の中でもかなりのインパクトを持っているらしいということだ。

実際に行ってみたところ、僕が初日のムンバイで感動していたエレファンタ島の石窟をはるかに上回るような洞窟が、デカン高原の岩山にずらっと30個近くも並んでいた。

石窟は東端から、初期仏教の修行窟・カイラーサナータ寺院を中心にしたヒンドゥー石窟群・少し離れたジャイナ教石窟群と、インド原産のよく似た三宗教が並存する形で作られていて、東に行くほど古い。

石窟内部は共通してコウモリの糞の臭いが立ちこめ、場所によっては呼吸もままならないくらいなのだが、それでも初期の仏像彫刻や精緻を極めるヒンドゥー・ジャイナの寺院群は、充分に見る価値があると思った。

  

  

↑仏教寺院群と内部のほとけさま。

↓西端のジャイナ教寺院群。

 

そして、中央部のカイラーサナータ寺院周辺のヒンドゥー教窟群。

カイラーサナータ寺院は小学校の体育館ほどの大きさがあり、全面に彫刻を散りばめた巨大な建造物だ。

しかも、以下の写真からもわかるように、建物も周辺の塔もすべてが一つの岩山を彫り出すことでできあがっている。

つまりこれらはすべて、元は一つの岩だったのである。

  

 

遺跡の出口の食堂で遅い昼食をとった際、店の子どもと仲良くなる。再三の主張になるが、インドは、他の人間はともかくとして子どもだけはとにかくかわいい。


帰路、アウランガーバード行きの乗り合い自動車に乗り込む。

運転側としては一回の移動でできるだけたくさんの人間を運びたいらしく、ただのジープに15人ほどの乗客を満載し、更に若い者には車の天井や後部デッキにつかまらせて乗せている。

天気が突然悪くなり、デカン高原を激しいスコールが洗う中、人間を満載したジープは酸欠状態でインドの田舎道を疾走してゆく。

病院に行く途中とおぼしき、母親の膝に乗った5歳くらいのムスリムの女の子が、隣で長い睫毛を伏せてぜいぜい荒い息をしているのを聞きつつ、僕は車がはやくアウランガーバードに着いてくれとそれだけを思った。

>>身毒(インド)旅行記−2へ続く