街は目覚めるなりすさまじい声で鳴き始める。高鳴るクラクション、軋みあげるブレーキの音。そんな中、一人の男がとあるユース・ホステルから出てきた。

 通りは通行人と自動車と自転車とで見た目に不味いかき混ぜご飯みたいになっているが、男は人と車と自転車の間にできるわずかな隙間を縫うように歩いていく。内輪差すら計算しつくしているのではないかと思わせる絶妙の足捌きだ。これが無意識下で行えるようになったらアナタはもう日本人じゃなくて中国人である。

男はちょうど良くやってきたバスに乗った。

 目的地は特に決めていないらしい。何を考えているのか分からないそぶりでバスに揺られ、人民路のとあるバス停で降りた。

 ここで初めて地図を確認し、肩をすくめると来た道を戻り始める。どうやら行き過ぎていたようだ。

 出勤する社会人も、通学する小学生も、だいたいは屋台で朝ごはんを済ませる。蘇州の飲食店は小さくとも店舗を構えており、中国に一般的な移動式の屋台を見かけることはあまりない。男もまた、朝食を摂っていなかったので、通りがかった店先でなにやら肉と卵が入った今川焼きみたいなのを求めた。こういった食べ物や飲み物はひとつ百円以上になることはそんなにないから、男の財布の紐も緩みっぱなしである。見かけて面白そうだったらとりあえず買って食べている。

 口を動かしつつも、建物に刻まれている住所と地図とを代わるがわる見て、彼は通りを歩いていく。しばらくして見えた数階建てのビルの階段を登る。

「チケットセンター」とある。なるほど、ここはバスのチケットを発券している施設なのである。窓口はどれも空いていた。男は慣れているのか、それとも昨日苦い経験でもしたのか、カバンから小さなノートと鉛筆を取り出し、乗車日と目的地を書いて窓口に差し出す。

窓口のおばちゃんはそれを見て、いくつかの便を時間別に例示する。彼はその中から十字十分発のバスを選んだ。滑らかに手続きは進み、彼は運賃と引き換えに明日乗るバスのチケットを手に入れた。

 無事にチケットを手に入れたのが嬉しかったのか、男の足取りは軽い。しかしいまだもってどこか目的地があるようには見えなかった。男はあっちをきょろきょろ、こっちをきょろきょろ、ふらふらと歩いていく。まるで見失った自分を探しているかのようだ。

 足は街のより繁華な場所へと向いていた。

観前街は蘇州一の繁華街であって、故郷に戻ってきた鮭の群れのごとき大量の老若男女で無駄に賑やかだ。よく言えば活気がある。

中でも一番賑やか、もといやかましいのが家電商品店だった。生意気にも店の前にバルーンアートとか飾っている。店外スピーカーの絶叫がかまびすしい。携帯電話は今一番の売れ筋らしかった。男はその様子を見ながら、日本のより少し安いな、とか、脳内電卓で計算しつつそんなことを考えているようだった。パソコンもみんな持っているし、学生がDSやらPSPで遊んでいる姿もよく見かけていた。彼は以前、青島に行ったことがあるのだけど、そのときはそんなの見かけなかった。

優柔不断なその男はどこで昼食を食べるかで三十分くらいあたりをうろうろしていた。しかし結局マクドナルドに決めたらしい。さっさと決めればいいのに、まったくアホな光景だった。

中国とはいえ、店内は赤く、そして「I’m lovin’ it(我就喜欢)」だった。ただし今はオリンピックフィーバーがかかっているので、後ろに「中国の勝利を!(中国赢!)」とある。男はそれを見上げて、なにやらもの悲しい気持ちになった。

違うんだよ、中国・・・。ドナルドはそんな気持ちで「I’m lovin’ it 」って連呼してるわけじゃないんだ。そこには多分、世界平和的なメッセージがあるはずなんだ・・・

男は三十元ほどのセットを頼んで、コーラを飲みながらビッグマックを齧る。

その後も男はなんの目的意識も感じさせない、情けない格好で街をさまよい続けた。適当に店を冷やかしつつ、食べたいものを食べて、欲しいものを買ったりしていた。そういえば、家電店の店内ディスプレイで、展示してあったパソコンをいらっていた。例によって勝手に寄ってくる店員さんをあしらいつつ、彼女たちが見ていない隙にカメラのメモリーカードを差し込む。容量がなくなりかけたので、要らないデータを消したいらしい。すぐ隣でmicroSDを売っているんだから、そっちを買えばいいのに、無駄な出費はしたくないらしい。あまつさえパソコンの設定を変更してまで目的を果たそうとする男は果てしなく邪道である。人によっては哀れを催すかも知れぬ。誰も見てなかったけど。

通りには文廟があって、やはり入場無料だった。骨董市やお土産屋があって、男は大分長い時間をそこで過ごした。

男がお土産店の一角で、なにやら値切り交渉をしている。彼の前にあるのは、蘇州両面刺繍の置物である。はて、彼は昨日これと全く同じ商品を購入したはずだが。

よくよく表情を見ると、彼とて買う気などない。うざったい店員に適当に付き合っている風であった。

「いくら」

「二百八十元」

「ふーん。いらないや」

 さっさと歩き去る男。

「ああ、待って。百元にするから! だめ?」

そのとき彼はぴくっと肩をふるわせ、一瞬立ち止まりかけた。しかし、次の瞬間にはなんでもないように歩みを取り戻した。ただ、足取りが一層重くなった気がする。お土産の値段がどうかしたのか。なんというか、泣き出しそうな後ろ姿だった。背中が煤けている。

 

日進月歩の数十倍のスピードで近代化する中国、お洒落すい~つなお店もたくさん見かけるようになった。しかもかなり安い。日本では一ピース六百円もするフルーツタルトとかあるけど、中国のそれは一つ九十円ほどである。

彼は辛いものと甘いものが大好きという偏狭な舌の持ち主なので、四つほど包んでもらって、持って帰った。